これからコラムを投稿するにあたり、あらかじめ断りを入れておくと、
僕がここに書く文章はすべて自分のために書いているのであって誰か他人に理解されようとは一切考えない。
だが、そうであるならばなぜインターネット上に文を掲載する必要があるのか
疑問に思う人もいるだろう。むしろ、この断りを入れている時点で僕はすでに他人、つまり読者を意識していることになるのだが、そもそも読者を意識せずに文章を書くことは不可能なのかもしれない。
読み手を自分自身に設定するという趣旨は今のところ採用しない。
今、僕は感じたことを言葉にしているが、それに意味はない。
なぜなら今書いていることが、あらかじめ言語化する必要のない事柄であるということが自分の中で
解り切っているからだ。
では、なぜ言語化する必要があるのだろうか。ここで言いたいのは、言語化が不要という意味ではない。
あくまでも、必要性があるかないか、ということだ。
課題、とでもいおうか。
つまり、ここに今回のコラムの目的がある。
おそらく僕は今多くの制約を自分に感じているのだ。僕を含め、社会生活の中で多くの人が「他人の評価」を意識しながら言語化しているのが紛れもない事実だ。社会性として評価されるためである。生きるための術なのだ。
社会の中で、他人の評価を意識しせずに思想や感情を言語化した場合、高い確率で「もめ事」が起こる。もちろん、もめ事は他人を攻撃したり侮辱したりした場合に起こるのであって、自己の中で完結するような表現であれば全く問題ないだろう。
とにかく、僕は読者を全く意識しない。つまり、他人からの評価を全く意識しないという取組をようやく始めたという事だ。
だが、それ自体は全く意味がない。
こうした言語化のプロセスそのものに少なからぬ価値がある。